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横浜地方裁判所 昭和62年(ヨ)827号 判決 1991年3月12日

債権者

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

内藤亘

債務者

社団法人全国社会保険協会連合会

右代表者理事

北川力夫

右訴訟代理人弁護士

太田恒久

石井妙子

主文

本件申請を却下する。

申請費用は債権者の負担とする。

事実及び理由

第一債権者の申立

1  債権者が、債務者に対し、社会保険相模野病院を就労場所とする助産婦として、雇用契約上の地位を有することを仮に定める。

2  債務者は、債権者を社会保険相模野病院において助産婦として仮に就労させなければならない。

3  債務者は、債権者に対し、昭和六二年三月一日から本案判決確定に至るまで、毎月末日限り三三万〇一四一円ずつを仮に支払え。

4  申請費用は債務者の負担とする。

第二事案の概要

本件は、債務者が経営する病院に助産婦として勤務していた債権者が、債務者から、勤務実績が著しく悪く、職務に必要な適格性を欠くこと等を理由に解雇されたのに対し、右解雇は解雇理由を欠くものであり、そうでなくても、年次有給休暇を取得したことに対する報復としてなされたものであって解雇権の濫用に当たるから無効であると主張して、助産婦としての雇用契約上の地位を仮に定めること及び仮に就労させることを求めたほか、毎月の賃金の仮払を求めた事案である。

一  争いのない事実

1  債務者は、健康保険等の社会保険事業の円滑な運営を促進すること等を目的として設立された公益法人で、社会保険相模野病院(以下「債務者病院」という)をはじめ全国で五〇をこえる病院、診療所を経営しているものである。

2  債務者病院は、病床数一五〇床(うち産婦人科病床数三〇床)を有する総合病院で、昭和六二年七月一日当時の正職員数は、医員一七名、医療技術者二六名、看護職員六八名、事務職員三六名、技能技術職員一一名の合計一五八名であった。

3  債権者は、昭和三五年七月に看護婦免許を、昭和三七年七月に助産婦免許を取得し、横須賀共済病院、聖路加病院等で勤務した後、昭和五三年七月一日、債務者に雇われ、当初債務者病院産婦人科病棟で、次いで、昭和五六年四月一日から産婦人科外来で、昭和六〇年一一月一日から再度産婦人科病棟で勤務してきた。

4  債務者は、昭和六二年二月二七日、債権者に対し、債務者病院の就業規則三六条一号、三号及び四号に該当する事由があることを理由に、解雇の意思表示をした。

5  債務者病院の就業規則三六条の定めは次のとおりである。

「職員は、次の各号の一に該当するときは、解雇されることがある。

一  勤務実績が著しく良くないとき。

二  心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えられないとき。

三  前二号に掲げる場合のほか、その職務に必要な適格性を欠くとき。

四  業務量の減少等経営上やむを得ない事由があるとき。」

二 争点

本件の争点は、債権者について、就業規則所定の解雇事由が存在するか否かである。

この点について、債務者は、債権者の、<1>職務に対する責任感に欠け、仕事の仕方が杜撰であること、<2>勤務態度が悪いこと、<3>技術が未熟であること、<4>患者に対する態度が著しく悪いことが、就業規則三六条一号に該当し、右<1>ないし<4>に加え、同僚との融和協調を欠くことが同条三号に該当し、更に、債権者が他の看護職員との共同看護をなし得ない状況にあることが同条四号に該当すると主張する。

第三当裁判所の判断

一  当裁判所が証拠により認定した事実は、次のとおりである。

1  昭和五六年一月二四日当時、債務者病院の産婦人科病棟では児心音、子宮底の測定等妊婦の経過観察は助産婦が責任を持って行うものとされていた。ところが、債権者は、産婦人科病棟に勤務していて、同日、切迫早産で入院した患者のあることを知り、さらに同月二六日にも前日の勤務者から同患者に腹緊が見られる旨の申し送りを受けていたにもかかわらず、児心音の測定、子宮口の開大度、児頭の下降度の測定等の経過観察を怠り、医師に対する連絡もしなかった。このため、同日午後二時ころ医師が回診して気付くまで、既に妊婦に陣痛発作、努責(いきみ)があることも、児心音が聞こえなくなって胎児が危険な状態にあることも見過ごされていた。このほかにも、債権者には、助産婦として、妊婦の陣痛の強さ、間隔、出血の有無等の経過観察が杜撰で、分娩時期を適確に予測し得なかったことがあったので、債務者病院では債権者を分娩に関与させることは危険であると判断して、前記のとおり、同年四月一日、債権者を産婦人科外来に配置換えした。

(<証拠略>)

2  債権者は、外来当直者として事務職員一名とともに当直勤務に就いていた昭和五八年五月七日午前二時ころ、通院中の妊婦から緊急に来院するとの電話連絡を受けた。このような場合、外来当直者としては、直ちに妊婦を病棟に運搬することができるようにするなど所要の準備をすべきであるのに、債権者は何の準備もせず、間もなく妊婦が夫とともに来院した時にも、事務室で書きものをしていて応対しなかった。このため、本来妊婦を運搬する役割でない病棟当直者の准看護婦と外来事務当直者が、既に破水して胎児の頭が出ている状態であった妊婦を分娩室に運び、さらに、娩出された新生児が妊娠二五週の未熟児で、呼吸も見られない状態であったため、蘇生のための応急措置をとるなど、未熟児センター勤務の婦長と当直勤務の医師が駆けつけるまで必要な措置をとった。

この間も、債権者は分娩室にも顔を見せようともせず、何ら当直者としての務めを果さなかった。そして、前記未熟児センターの婦長からその無責任な態度をたしなめられても、反省するどころか、安藤(前記准看護婦)が連れて行ったのだから、債権者が非難される筋合はないとか、患者の股間に黒い物体を見たが胎児だとは思わなかったなどと言い張るだけであった。そのうえ、右婦長からの連絡により当日開かれた外来勤務者の話合いの席では、自分が患者を急患室に入れたと強弁したほか、娩出した新生児を死んでしまった単なる物体であるなどと言ったため、ますます他の看護職員の反感とひんしゅくを買うこととなった。

こうしたことがあったため、当時、病棟勤務者の間では、債権者が外来当直の時に妊婦等から来院するとの連絡を受けた場合には、不測の事態に備えて、本来の担当でなくても病棟当直者が妊婦等を迎え、応対する旨の申し合わせがなされていたほどであった。

(<証拠略>)

3  債権者は、日頃物品の管理、整理整頓が杜撰であったため、総婦長から整理整頓の徹底を指示されていたが、それにもかかわらず、昭和六〇年九月末ころ、債権者の直接管理していたカルテ約三〇〇枚を紛失させてしまった。その際も、債務者病院のカルテの保管体制に問題がある、誰かが債権者を陥れようとしてやったことであるなどと言って、自己の行為を反省するような態度は全く示さなかった。

また、債権者は、昭和六〇年一一月ころから昭和六一年二月ころまでの間に、母親学級用のビデオテープを紛失させた。このビデオテープは同年三月二六日、看護婦室の大掃除をした際に看護婦室のソファーの下にあった紙袋の中から債権者の私物とともに発見されたが、債権者は紛失に気が付いたころから、自らの責任を棚上げにして、債務者病院の管理者らに対し、以前産婦人科病棟の婦長をしていた者が、母親学級を潰すことを企てて盗み出したと言い張り、文書で、告訴を検討しなければならないと申し出たりした。ビデオテープが発見された後は、発見した准看護婦に口止めして管理者にこれを報告せず、発見されたとの噂が広まった同年七月になって始めて管理者に報告したが、何ら謝罪するでもなく、発見者が怪しいなどと根拠もないことを言って中傷していた。

(<証拠略>)

4  債権者は、次のとおり、医師の指示を無視したり、指示された措置をとることを怠ったりした。

(一) 昭和五六年七月、手術室の応援に行った際、医師から手術患者にサクシン二〇ミリグラムを注射するよう指示されたにもかかわらず、四〇ミリグラムを注入した。その際、医師が注意したところ、そんなに言うのなら手伝わないといって手術室を出て行ってしまった。

(<証拠略>)

(二) 昭和六一年七月二六日深夜、帝王切開の産婦から痛みがあって眠れないと訴えられた。同産婦については、予め医師から、疼痛時には鎮静剤であるソセゴン三〇ミリグラムを注射するよう具体的に指示されていたにもかかわらず、同産婦に対し、「後陣痛であるから我慢するように」と言っただけで何らの措置もとらなかった。

(<証拠略>)

(三) 昭和六一年八月一日、切迫早産の妊婦に胎児の肺機能成熟促進作用剤であるリンデロンを投薬するに際し、指示簿を確認することなく医師の指示量の四分の一のみを注射しようとして同僚の看護職員から注意を受けた。

(<証拠略>)

5  債権者は、昭和六一年六月六日、患者から採取した尿を検査室に送ることなく放置したため、再度、尿を採取しなければならなくなったことがあり、また、同年七月には医師から検査の指示が出ているのに、次の勤務者に引き継ぐ際に、右検査が中止になった旨誤って伝達した。

(<証拠略>)

6  債権者は、看護職員として当然に守らなければならない衛生上の注意を怠り、汚れた手袋のままで消毒済みの器具を扱ったり、分娩介助をしたり、汚れた洗浄液で哺乳びんを洗ったりすることがしばしばあり、他の看護職員から注意を受けても改めようとしなかった。

(<証拠略>)

7  債務者病院では助産婦も他の看護婦と同様、分娩の後始末をすることとされているのに、債権者は、分娩後の後片付けは助産婦の仕事ではないと言ってこれをしないことが多かった。また、分娩介助においては、新生児の娩出後、母親を医師が、新生児を看護婦または助産婦がそれぞれ手当てする役割分担になっていたが、債権者は、新生児を放置するなどして助産婦に与えられた役割分担を無視することも多かった。

(<証拠略>)

8  債権者は、二人で勤務する休日にしばしば遅刻し、相勤務や交代勤務の看護職員に大きな迷惑をかけた。しかも、遅刻をしてもその報告をしなかったし、婦長から何度か遅刻を注意されても改めようとしなかったばかりか、かえって、誰か告げ口をした者がいるなどと逆恨みをした。

また、債権者は、勤務の直前になって電話で同僚に勤務の交替を申し出ることがしばしばあり、昭和六一年六月と七月には交替する相手方の承諾を得ていないのに、承諾を得ているとして管理者に連絡し、結局、その相手に無理やり勤務させてしまうということすらあった。更に、夜勤は二人制であるが、債権者は、夜勤中相勤務者に行き先を告げずに持場を離れたり、私用をしていたり、早々と仮眠してなかなか起きなかったりして、相勤務者に負担をかけることもしばしばであった。このことも、債権者に対する同僚の不満を募らせる原因になった。

(<証拠略>)

9  債権者は、日頃、妊娠中絶の患者に対し、「こんないやなお手伝いをしなければならない」「そんないい年をして妊娠したのですか」などと中絶患者の微妙な心理に対する思いやりを欠くことを平気で言ったり、調乳用の湯を求めた外来患者に対し、「忙しいときは困る」などと言ってこれを断ったりするなど、患者に対する応対は、総じて、言い方がきつく、不親切で、配慮の足りないところが多かった。そして、これを上司から注意されても、全く意に介せず、改めようとしなかった。こうしたことから、債権者は、産婦人科外来での勤務も不適当であるとされて同年一一月、産婦人科病棟に再度配置換えされたが、その後も一向に態度は改まらず、再婚者に対し、離婚の原因を根掘り葉掘り聞き、「今度何人目のご主人さん」などと非常識な質問をするなど、来院者の私事について詮索し、不愉快な気分にさせたりした。

債権者は患者からのコールに対しきちんと応える姿勢がなく、コールランプが点いているのに、これを無視したり、特定の患者とは親しく話し込んでいて、他の患者が呼んでも応答しないということもあった。

(<証拠略>)

10  債権者のこうした行動は他の職員に多大の迷惑を及ぼして来たが、債権者は、同僚や、上司から助言や注意を受けるとこれに反発して、「そのようなことを言うのなら訴える」、「私は悪くない」などと言って、逆に、注意した者の一挙一投足を上げつらい、あるいは、責任を他に転嫁しようとするため、一層他の職員の反発を招いた。

また、債権者は、新卒の看護職員につらく当たったり、自己の分担すべき業務を新卒の者にさせたりするなどの行動も目立った。このため、債権者と一緒に仕事をしようとする看護職員がなくなり、債務者病院は、債権者を交えた勤務体制を組むことが困難となった。

このような状況の中で、債権者は、昭和六一年八月五日から同月一六日まで、年次有給休暇をとって中国に旅行したが、これは、他の看護職員が相互に譲り合い、調整して交替で夏期休暇をとろうとしているなかで、同僚看護婦の反対を押し切って出掛けたものであった。このため、同月一八日、債権者と婦長を除く産婦人科病棟勤務の職員全員の名で、債権者とは同じ職場では働けない旨の嘆願書が出され、更に、同日、債務者病院の看護職員全員で構成される看護部親睦会からも、債権者と一緒に働くことはできないとの嘆願書が出された。

(<証拠略>)

11  こうしたことから、債務者病院では、債権者をこのまま産婦人科病棟で勤務させることは他の職員の人事管理上差し支えがあると判断し、とりあえず、同月二〇日債権者を看護部に配置換えしたうえ、同月下旬から同年九月上旬までの間、債権者の受入れ先を検討したが、各病棟、外来とも債権者に対する反発が強く、受け入れてもらえなかった。更に、債務者病院の総婦長が、同年九月から同年一〇月にかけて、中央材料室、各病棟の現場の看護職員にも当たってみたが、いずれも、債権者を受け入れることはできないということであった。

その後、債務者病院は、三か月近くの冷却期間をおき、同年一一月上旬、再度各病棟、外来に債権者を受け入れることを検討してもらったが、いずれも、債権者を受け入れる余地はないとして断られた。同月七日にも、各婦長と債権者との話合いの場を設けたが、債権者が各婦長に対して反発するだけであったため、物別れに終わり、同月一九日と同年一二月一日に債権者と婦長らの看護職員との話合いの機会を設けた際にも、債権者が自らに落ち度はないとの態度に終始したため、他の職員の反発が強まっただけで、解決の目処はつかなかった。

債務者病院の病院長自らもまた同月一七日、債権者と話し合い、勤務状況を反省し、他の職員と協調して仕事をするよう諭し、昭和六二年二月二六日にも、債権者と話し合ったが、債権者には全く反省の態度がみられなかった。そこで、翌二七日、債権者に対し解雇の意思表示をしたものである。

(<証拠略>)

二  右認定事実によれば、債権者は、分娩の経過観察、当直者としての任務、物品の保管、医師の指示の履行、他の看護職員との間でなされる申し送り等、債務者病院の助産婦としての役割を果すことにおいて欠ける点があるだけでなく、債権者自身がその欠点を改めることを拒否し、独善的、他罰的で非協力的な態度に終始したために、他の職員との円滑な人間関係を回復し難いまでに損ない、債務者病院の看護職員として不可欠とされるところの共同作業を不可能にしてしまったのであるから、債権者には債務者病院の就業規則第三六条第三号の「その職務に必要な適格性を欠くとき」に該当する事由があるというべきである。

三  債権者は、本件解雇は、債権者が昭和六一年八月五日から一七日まで年次有給休暇を取得して中国に旅行に行ったことに対する報復としてなされたものであると主張する。

確かに、債権者本人尋問の結果によれば、債務者病院は、債権者が中国旅行から帰国した後に、債権者を産婦人科病棟から看護部に配置換えし、看護部において主としてガーゼ畳みなどの単純作業をさせ、助産婦としての仕事をさせなかったなど、解雇に至るまでほとんど仕事らしい仕事を与えなかったことが認められる。

しかしながら、債務者病院が債権者に助産婦としての仕事を与えなかったのは、債権者が他の看護職員の間で夏期休暇の調整をしないまま長期間の休暇をとったため、それらの職員の反発を招き、一緒に仕事をすることを拒否されたからであり、その原因は主として債権者のわがままにあったので、やむを得ず看護部に配置換えして様子をみていたものである。ところが、それにもかかわらず、債権者が、従来の勤務ぶりを反省し、謙虚に批判を受け入れるどころか、専ら他の職員や債務者病院に対する批判に終始していて折り合おうとしなかったので、債務者は、債権者を解雇したものである。したがって、これをもって年次有給休暇の取得に対する報復として看護部に配置換えしたり、本件解雇をしたものということはできない。

四  以上の次第で、本件解雇は適法になされたものというべきであるから、これが無効であることを前提とする本件仮処分申請は、被保全権利の疎明を欠くものであり、保証をもってその疎明に代えるのも相当でない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小林亘 裁判官 山本博 裁判官 吉村真幸)

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